NPO法人 日本健康太極拳協会 山梨県支部

当ブログで活動報告を行なっております。

楊 名時 師家

楊名時師家について、私を含め山梨県支部会員の皆様は、会員年数が新しいものですから、楊名時先生を良くご存知でない方が多いと察せられます。そこで楊名時師家について、私も詳しくはないのですが、本で学んだこと、他の師範の先生にお聞きした事を含め、簡単にご説明させていただきます。

楊 名時 師家 (Yang Ming-Shi)

1924年 日本では大正13年に中国山西省の五台山の麓 五台県古城村にお生まれになりました。五台山は仏教の四大聖地とされ文珠菩薩の聖地としても有名で、世界文化遺産になっています。

楊家は、有名な武将の家系で「楊門女将」と呼ばれ、京劇やドラマにもなり、北方謙三さんも小説に書いたモデルになっている家柄です。

武門の伝統にしたがい、幼少より太極拳中国武術全般を教えられ育ち、中学時代は幾度か優勝もしていた様で、この頃より武術家としての片鱗をのぞかせています。

また、仏教の聖地でもある五台山の麓に生まれた為、五台山の高僧が家に泊まりに来て、両親とも熱心な仏教の信者だった為、師家も仏教に小さな頃より親しまれた様です。

1943年、昭和18年19才の時に当時日本軍の占領下にあった山西省の官費留学生に合格され日本に来ました。東京の東亜高校に入学し、京都大学法学部政治学科に進みました。外交官を目指した様ですが、後に学徒出陣も経験した様です。その年の夏休みに、静岡県の龍澤寺を訪ね、14日間の座禅会に参加した様です。

師家は、五台山に繋がる日本のお寺をまわるのが大好きだった様です。

その後日本が終戦を迎え、日中関係の変化、国共内戦蒋介石軍は南方へ移動、ついに台湾に国民党政府を樹立する状況下に置かれていまい、政治的な影響で祖国に帰れなくなってしまった師家は、若いながらも中華高校の校長等を経て、日本で生計を立てながら、日本の神社仏閣の前や、海、山の大自然の中で太極拳をし、1960年昭和35年に誰も頼る人がいない中、一人で太極拳の種まきを始めました。

師家は、多感な時期に戦争という恐怖体験、外交官を諦め祖国に帰れなくなったことや、人種の壁、数々の裏切りにあったり、楊名時太極拳は、太極拳ではないと言う、誹謗中傷に晒されたり、想像を絶する様な体験の中、人を恨むわけでもなく、全てを受け入れて、愛を持って、一人で太極拳の普及に励みました。師家の愛情、優しさ、思いやり、や「あ・い・お・お・く」の言葉はこの様な経験から来たのではないかと思われます。「為了明天」を掲げ「健康・友好・平和」の基礎を築かれた楊名時太極拳は、今では、全国に35支部を擁し、日本に数ある太極拳の中では、一番の会員数を誇る団体に成長しました。

楊名時師家は、ご高著「楊名時の生きる心動く心」の中で、「我々は今、自然を離れ、自然を忘れつつある・・・内面的なものを軽視する風潮がある」と仰り、「私にとって生きる道は、自然と一体になる道です。私はどこから学ぶのか。どこから情報を仕入れるのでしょうか。どこからでもありません。全ては心を通し、体を通して、舞いながら体がお経を読むのです。体で自然と仲良くするのです。太極道の心こそ私の生きる心なのです。それは限りなく愛の心です」と語られています。

コロナ禍で生活にも大きな影響を及ぼしていますが、楊名時師家が掲げられた「為了明天」〜希望を胸に明日に向かっての理想実現の為、山梨県支部は今後も会員の皆様と一緒に、稽古に励んでゆきたいと思います。今後のご協力をよろしくお願い致します。

             山梨県支部長 望月昭三

楊 名時 師家 (Yang Ming-Shi)

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